昭和42年5月21日 朝の御理解
あっても苦労、無くても苦労、同じ苦労ならあって苦労したが良いというような事を申しますね。例えて云うならこれは金だけの事ではないでしょうか、お金でも、お金が無いという事も苦労だと、けれどもお金を沢山持っているという事もまた苦労なんだ。そういうことは確かいそうだと思いますね。お金を沢山持っている人が苦労がないかと云うと そうじゃないのです。お金には苦労はせんけどその為に、それにまつわるというか、それに付随した事で、やはり難儀な事があるんですから。ですからあっても苦労なら 無くても苦労、だから同じ苦労なら あって苦労した方がいい、皆さんどうですか。皆さんもそんなふうじゃないでしょうか。ならいっちょ百万長者になってから苦労してみたいと、ところがこの百万長者に実際なってみるとです、金やら物やらというようになってしますうから、不思議なんですよね。
昔から東洋思想と申しますかね、特に支那、日本を中心にした思想なんです。中にその、ない中にでも、京都の龍安寺の京都の竜安寺にお手洗いがあります。私も一度参りましてから見せて頂いたんですけども、このくらいの、丸い、長いお手洗いなんです。それに書いてあるんです、中に四角い口という字が書いてある。それにそれひとつで全部が読めれるように作ってある。考えたもんですよね。まるっきり御理解のような感じがする。我只足知(われただたるをしる)とかいてある。それが一つの字になってないのです、真ん中の口という字に点を付けたり、するとそれが只になったり、知になったりということになるんですね。
我只足知、まあ禅あたりの人達が好んで使った言葉なんでしょうね。吾只足知。というのは、どういう不自由な中にあってもです、それで満足しておるという事なんです、どういう不自由な目にあっても、その不自由な中にもう十分足りておるんだ、ということを知る事以外にはないのだ、という禅の悟りでしょうかね。
ところが、今度は西洋の思想になりますと反対です。あらゆる知恵、あらゆる工夫をしてですね、そして人間の知恵、力をもって足る事をまず先に考える。東洋の人は無い中からでも、そこに満足をしようとする思想。西洋は反対に一切の工夫をする、努力する。その力を持ってです、様々ないわばものに不自由しない働きというかね、そういう事を工夫する、ね。
ところがそこにはやはり食べ過ぎるところの悩みというものがやはりついておる。この両方を両立出来るような工夫、考えはないものか、と。
昨日吉井の波田野さんが古い新聞を持って見えまして、先生今日ふっと目に付きました、こういう古い新聞にこういうことが書いてありますと言うて、今私が申しましたようなことをかいてある新聞を私に示された。
そして今私が申しますようなことで締めくくってあった。皆さんどういうふうに感じられるでしょうか。その両方が相まって行くところ、ね、ものもある、いや金もある。それでいていわば苦労のない生き方というものはないものだろうか。いわゆる金を持ってです、そしてその西洋思想に対するとこの東洋思想の中にある。それでいていつも喜んで入れると言うか、満足していると言う方法はないもんだろうか。それはあんまり贅沢というもんだろうか。今私は決してそうではない、お道の信心を持ってするならばそんなことはないと。
ね、お金も頂けると同時にその頂けておることに対して心からのまんくうからの喜びに浸らせていただいておかげの頂ける道を教祖は示しておってくださると言うことなんだ。
ただしそこに道を外れるところにです、片ちんば風な結果があるんだ。
例えばその禅の思想というか東洋思想の中にありますという、どういう不自由な中にあってもです、吾只足るということだけを知るだけだと言うようなことで私は一生を終わったとするならば、いわゆる貧乏なら貧乏に甘んじて一生を過ごすということになる。果たしてそれでいいだろうか、私どもは欲が深いからそんなことじゃ承知が出来ない。
ほんとにやはり西洋の思想じゃないけれど、物にも金にも不自由しないようなおかげを頂きたいと思う。しかもならあっても苦労というその苦労を伴うようなものじゃなくて、あればあるほど私はいよいよ充実した有難さというようなものに浸らせていただきたいと言うような私は両方とも得たいという欲望を持っているんですけれども、お道の信心はその二つの欲望をです、私どもに叶えてくださる道だと私は思うです。
ここまでお話しをすると皆さんがなるほどと合点がいかれると思いますたいね。
お取次ぎを頂いて、信心をさせて頂いてね、ほんとに現在、本当にこれ、こういうものの中に、有難いと云うことを感じられたら、どういう結果になるかという事を、金光様はここの所をですね、信心を頂いておかげを受ける、いやお道の信心を頂いておかげを受ける、御取次を頂いておかげを受けるという事がどんなに尊いものであるかということを感じます。
あっても苦労、無くても苦労同じ苦労ならあっての苦労、情けないですね、それこそ若い時から爪に火を灯すようにしてからがまだした。いわゆるがまだし出した。晩年になって行く時には、成程その金利で充分に生活が出来るようになった。ところがこの世は金だけじゃなかった、物だけじゃなかった、他に人間の幸福というものは、これだけじゃなかったと、もう終着駅に近付いてから気が付いたのでは遅いという事。しかし世の中にはそういう人ばっかりなんだという事、財産を持っている 子供に名前変えしたら、とたんに子供から悪うされる、だから ちゃんと云うて、田地田畑といった物を持っておいて、年寄を大事にしよるとじゃなくてからですね、その財産を大事にしているようなもの、自分たちはどんなに気持ちの悪い事だろうか、いかにも子供がおれば大事にしよるごとあるばってん、これは俺の財産目当てで大事にしよると、こう思うただけでも私は不愉快だと思うんですね、どうでしょうか、それでも はずしたらいよいよ粗末にされるから はずしたら出来ん、もう一生を我情我欲のかたまりのようにして 過ごさなければならないというような事、どんなに考えても嫌ですね。そういう人が沢山ありますよ、嫁でも、でも、むごうしてくれる。けれども、ばあちゃんが持っている財産が目当てだと、その証拠に外したら もう粗末にされる。これじゃつまらん話でしょう。
そこで私思うのです、たとえば現在この合楽のお広前のことを考えて見るとです、今私が申した中から言うと、形のことが出来たという感じがいたしますね。けれども中身が出来ていない、そこにバランスが取れてない。まあ例えて云うならこういうことになりましょうかね。子供が云う事を聞かん、家内が云う事を聞かんと致しましょうか、そういう時に、どうして云う事を聞かんかと、いうところにはお道の信心はないのです。どうして子供が親の云う事を聞かんかというところには、もうお道の信心はないのです、その時に形は出来ておるけれども、内容が出来てないことをすぐ悟らねばならんのです。家内じゃない、子供じゃない、自分自身の徳不足、力不足だと悟らないかん。そこを悟ってそこを行じていく時にです、ね、形も出来ておるな、内容もできてくると言うおかげになってくるのです。
それならば合楽の場合、形はこんなに見事に出来た、けれども内容が出来ていない これは私自身が一番良く分かる、信心も出来んのにこのようなおかげを受けてという事になっておる。そこで私としてはです、私としてはこれからは本気で内容を充実していく、内容をつめていくところの信心にならなければいけないなあという事を、これを見る度に私はそれを感じて、そこに精進していけばです、内外ともに充実した、いうなら内装、外装、外観はものすごかばってん、中はもうざまなか というのじゃなくて内装外装が行き届いて足ろうて出来ていくというところに、私は自分の信心の進め方というか、そういう焦点をそこにおいていけばです、たとえ形が出来て、段々中身が出来て行ったときに始めて、充実した喜びというものが与えられる。お金も出来た、財産も出来た、その中に喜びが充実した、そこに勿体ない 有難いという生活が約束される。
あっても苦労じゃないこと、そこで私どもがいよいよない時にです、同じ苦労ならあっての苦労がよかというだけに一足飛びにいかず、やつぱりそのような難儀な時に 難儀の中に本当に喜びが分からして頂く信心、そういう私どもは御取次を頂いて、そういう信心をさせて頂けば、これはもう絶対のもの、お道の信心をもってするならば、我只足知、といったような、どういうような難儀の中にあってもです、そういう悟りが心の中に開けたらです、お取り次頂いて開けたらです、神様、いつまでも金銭の事で いうならば、その氏子に何時までも貧乏させなさらんという事なんです。だから禅あたりは、そういう事はないでしょうが、一生我只足知というんですから、それも成程悟り、すましたようにして、よかろうけれども、不自由しながら、只、そういう悟りだけではやはり西洋の悟りの方がましだという感じもする、というて西洋の思想だけでもです、やはり苦労が伴うとするならばです、これも、持たんさきの方が良かったと、なりかねないのですが、お道の信心をさせて頂いて、金光大神の御徳におすがりして、金光大神の御取次を頂いて、より難儀の中に喜びを、無い中にでも喜びをわからせて頂いたらです、そういう実証的におかげが伴ってくるのが、お道の信心なのです。
信心させて頂いて喜び一杯にひたっていますというて、もし貧乏しておるなら、あんた金光様の御信心にどこか間違いがあるといわれても仕方がないんですよ。ですからその間違いのところを悟らせて頂き、そこんところが出来ていくところにです、有る家に喜びまで勝る充実したところの おかげが頂かれるのです。私、その新聞を読ませて頂いてからです、本当に金光様の御信心は、そういう面においてでも有難いなと、いよいよ感じさせて頂いたんです。
どうぞ